眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【眼鏡堂書店の本棚】『ラピスラズリ』山尾悠子

眼鏡堂書店の蔵書より、独断と偏見に塗れた”もっと読まれてもいい本”を紹介しつつ、全力でニッチな方向へとダッシュする【眼鏡堂書店の本棚】。

今回ご紹介するのは、山尾悠子の『ラピスラズリ』です。

ラピスラズリ山尾悠子

著者の山尾悠子は、1955年岡山生まれ。寡作の作家として有名で、85年ごろに一度作品が途絶。その後、十数年の空白期間を経て99年に作品が再び発表されるように。その硬質な文体と幻想的な作品世界には熱心なファンが多く、眼鏡堂書店も熱心なファンというわけではないのですが、美しい文章を書くことのできる数少ない現役の書き手であると認識しています。はっきり言って、玄人筋に評価される作家、あるいは作家のための作家、という印象で、世間的な評価からは外れたところにいる印象でしたが、『飛ぶ孔雀』で泉鏡花賞日本SF大賞芸術選奨文部大臣賞を受賞するトリプル・クラウンを果たしました。

 

この『ラピスラズリ』は空白期間を経て発表され、改めて健在ぶりを広く知らしめた作品となりました。画像で伝わるかどうわかりませんが、さすが国書刊行会。函、帯、見返し、扉と作りこみっぷりが半端ない!こういう採算度外視っぷりを愛でることができるのは国書刊行会ならでは。しょうもないデザインや装丁が多い中、一種異様ですらあります。

眼鏡堂書店の所蔵しているものは、2004年1月29日刊の2版。1版は2003年9月25日です。なお、本作は筑摩書房より文庫化されています。あとkindleでも読めるみたいですね。

 

ラピスラズリ』は全部で5章からなる連作長編。

あらすじは、

冬のあいだ眠り続ける宿命を持つ“冬眠者”たち。ある冬の日、一人眠りから覚めてしまった少女が出会ったのは、「定め」を忘れたゴーストで―『閑日』/秋、冬眠者の冬の館の棟開きの日。人形を届けにきた荷運びと使用人、冬眠者、ゴーストが絡み合い、引き起こされた騒動の顛末―『竃の秋』/イメージが紡ぐ、冬眠者と人形と、春の目覚めの物語。不世出の幻想小説家が、20年の沈黙を破り発表した連作長篇小説。

Amazonより引用)

 

最初に、個人的に言っておかなければならないこと、というか白状しなければならないことがあるので、書いておきます。

眼鏡堂書店はこれを1日で読了したのですが、はっきり言ってそういう読み方はお勧めしません!読み終えて気づいたのですが、山尾作品はじっくりと腰を据えて、それこそ美食を味わうがごとくゆっくりと文章を味わうべきものであって、勢いで読み切ればいいというたぐいのものではありません。

っていうか、前回の『グールド魚類画帖』でも同じことをやらかしていたわけで、認めたくないものだな、若さゆえの過ちというのは。まあ、眼鏡堂書店は若くもないのですが。

 

最初にある『銅版』に登場する合計6枚の銅版画から話が連ねられ、閉鎖的な広大なお屋敷の中で話が展開していきます。冬の間眠り続ける冬眠者と、その間屋敷を管理する使用人たち、そしてゴースト。描かれているのは非常に硬質で、イメージの輪郭がはっきりしているにも関わらず、ストーリー自体は幻想的で寓話的。まあ、時系列も結構めちゃくちゃ、というかそれぞれのキャラクターの記憶と語りを経て物語が紡がれていく、という体なので、一気に読み切ろうとするのはやっぱNG。その物語が、何を象徴しようとしているのか、そして物語が何を指し示しているのか、を味わいながらゆっくりと読み進めるべきでした。

「やっぱこの人、抜群に文章がきれいだし、とにかく上手い」という雑な感想しか出てこないのは、やっぱ眼鏡堂書店の読み方に問題があるとしか思えません。ごめんなさい。

あと、個人的に山尾悠子作品で感じるのは、とにかく組版がきれいなこと。

ページの余白の広さ、文字の詰まり具合(行間のスペースや、文字間の隙間、1行当たりの文字数、漢字やひらがなやカタカナなどの分散ぐあいなど)、印刷されている紙の色や手触り、ノンブルの位置や字体や大きさなどなど。

とにかく、完璧の一言。このあたり、何回も同じことを言ってる気がしますが、さすが国書刊行会。そういうことが気にならない人はまったく気にもしないのでしょうが、眼鏡堂書店のような気の狂った好事家たちは、この組版の美しさには非常に敏感。

ちなみに、ベストセラーランキングに入ったとある作家の消防団が出てくる作品を店頭で手に取ったのですが、組版の汚さにめまいがしました。あくまで個人的な感想ですが。

個人的なお気に入りは、冬のさなかに目覚めてしまった冬眠者の少女とゴーストの交流が描かれる『閑日』。凍てつくような白銀に覆われた冬。森々とした静寂のなかで紡がれる物語は、著者の硬質な文体と相まって、凛とした印象を受けます。

そのなかで印象に残ったのが、

「眠くなったら、また眠ると思う」

小娘はふたたび微笑した。「それまでは起きていたい。できる限りのことを知りたいし、覚えていたい。何もかも」

安易に意味を解することを許さない、でも、意味を求めなくても、文章それじたいがストーリーを物語る。物語を物語として味わった先に寓意や意味の存在があり、それを知ることでさらに作品の深みが味わえる。山尾悠子作品は一筋縄ではいきません。まあ、そこが魅力の最たるものなのですが。

そのテの作品は「幻想的」という形容詞で語られるのが常ですが、幻想文学とは明確で硬質なイメージのもとで紡がれなければならないのであって、曖昧模糊としたよくわからないイメージをこねくり回して「幻想文学でござい」と称するもののなんと多いことか。かつて、澁澤龍彦中井英夫が口を酸っぱくして言ったことが、いまだ一考だにされない現状を眼鏡堂書店はただただ憂うるばかりでなく、もはや怒りにも等しい感情が時折湧きあがります。

そんな感情の留飲を下げさせてくれる、という意味でも、大変良い作品でした。

そしてそういう作品を早飯を食らうが如き有様で読了した自分に恥じるところしきりです。いずれ、ゆっくりと時間を気にせず(今回だって気にする必要もなかったのですが)、味わい尽くす勢いで再読したいものです。

 

最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。