眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【眼鏡堂書店の本棚】世界の中心で愛をさけぶ/片山恭一

眼鏡堂書店の蔵書より、独断と偏見に塗れた”もっと読まれてもいい本”を紹介しつつ、全力でニッチな方向へとダッシュする【眼鏡堂書店の本棚】。

今回ご紹介するのは、残念ながら開催中止となった1月の読書会の課題図書、片山恭一の『世界の中心で愛をさけぶ』です。

世界の中心で愛をさけぶ片山恭一

言うまでもないことですが、『セカチュー』です。

2024年にセカチューとか正気か?と思われるかもしれませんが、眼鏡堂書店は正気です。たぶん。

歴代最高売り上げ321万部を誇る怪物的なヒット作。ドラマ版ではヒロインを綾瀬はるかが、映画版では長澤まさみが演じて大変話題になりました。なにより、『セカチュー現象』と呼ばれるほどに一大ブームを巻き起こしたことが知られています。

その当時、一応持ってはいたのですが結局読まずじまい。

もはやブームがあったことさえ忘却の彼方ある現在、改めて読み直そうと課題図書にしてみた次第。

 

そんなセカチューのあらすじは、

主人公は朔太郎という名の、地方都市に住む高校2年生。物語は、アキという名の同級生の恋人の死から始まる。そして生前の彼女との思い出を回想するように、ふたりの出会い、放課後のデート、恋人の墓から遺骨の一部を盗んだ祖父の哀しくユニークな話、ふたりだけの無人島への旅、そして彼女の発病・入院、病院からの脱出、そして空港での彼女の死までのストーリーが語られ、その中で朔太郎は自分の「生」の充足が、彼女との出会いから始まっていたことに気づく。アキの死から十数年が経過した今も粉状になった彼女の遺骨の一部を小さな硝子瓶に持ち続けていた朔太郎は、新たな恋人とともにアキとの思い出が詰まった郷里を訪ねる。そして「アキの死」が残したものの大きさを感じながら、ふたりがかつて一緒にいた郷里の学校のグラウンドで静かに骨を撒いた――。

 

作者の片山恭一は、86年に『気配』で文學界新人賞を受賞。

文學界新人賞といえば、野間新人賞とならぶ芥川賞への登竜門。つまり、ド直球の純文学。実際、321万部や、セカチューという単語から想像される大衆文学的な手触りは希薄。文学誌でいえば、『文學界』はもちろん、『すばる』『海燕』『文藝』あたりで連載されてそう。『群像』はちょっと違う。

古き良き純文学というか、清岡卓行池澤夏樹、なにはともあれ村上春樹あたりのあの感じ。このいい具合のノスタルジックな文学感が、妙にこの作品の世界観とマッチしていて、「あれ?思ったより悪くないぞ」という印象を抱きました。

 

眼鏡堂書店の初読の感想は、

  • 思いのほか「普通の」純文学で驚いた。
  • 深さがないので読むのは楽。
  • 映像的な「映え」がある。
  • 悪くはないが、良いかというと…。

 

たしかに、作品としての深みに欠けるのは事実。

作中で用いられる主たるモチーフをざっと列記すると、

  • 出会いと別れ
  • 戦争
  • 初恋
  • 病(白血病

それらが浅くて狭い。

ただ、それは考えようで、キミとボクの閉じた世界、この当時はやっていた「セカイ系」の狭さと浅さ。これが普遍的な一般性、つまり多くの人に訴えかける力を持っていたのでは?

なので、これを是とするか否とするかは、これを普遍性ととらえるかベタととらえるかの対立軸となるかと思います。ちなみに当時は、評論家をはじめとして「ベタ過ぎてひねりがない」「浅はか」といった否定的な意見が大半だったような気がします。

 

とはいえ、眼鏡堂書店は本作を大変な感心とともに、好意的に読みました。

単純に読みやすく、思った以上に古びておらず、作者の生真面目なまでの純文学観がけっこうよかったです。特にラストシーン。アキの遺骨を中学校のグランドにそっと撒くシーンは、主人公朔太郎の精神的な成長、というか成熟を見て取った気がします。

アキを失ったことの喪失と、朔太郎の精神的成熟。この成熟と喪失がこの本の主軸なのかもしれないなあ、と思い、もっと早く読んどけばよかったとちょっと公開しました。

 

 

何度も言いますが、「どうせセカチューだろ?」という人ほど読んだ方がいいです。

たしかに眼鏡堂書店も斜に構えて読んだのですが、胸に迫るものがありました。よかったです。100点ではないけど、75~80点はカタい作品。

 

ただ、それが321万部にはそぐわない、というのは事実。

それが編集者にとってはよかったかもしれないのですが、作者としては大迷惑だった模様。「さすがにそこまでの作品じゃねーよ」とガンガン売れていく作品を横目で見ながら「はやくこのブームが終わってほしい」と願い、最終的には「あれは私の作品ではない」という結果に。

本来なら、少数の忠実な読者に愛される作品として大事に扱われるはずだったのに、意図しない莫大な売り上げがすべてを台無しにしたような気も。

この「作者が愛せない作品」が代表作として挙げられること、はかなりキツいものが。

良い作品だが売れない、売れるけど愛せない作品。

理想と現実で揺れ動くさまは、まさに『牛肉と馬鈴薯』。

なかなか難しい問題です。

 

とはいえ、個人的に大変好意的な印象を抱いた作品でもありました。

やはり売れる作品には売れるだけの理由があるのだなあ、と感心した次第。

「アキのブラジャーにも嫉妬するオレだぜ」という文章や、朔太郎の祖父が「惚れた女のことが忘れられないから墓を盗掘してこい」という展開など、一瞬ぎょっとする箇所があり、「ああ、いまセカチューを読んでいるのだなあ」と奇妙な感慨を抱きました。編集者にケツを蹴り上げられながら、その怒りにまかせて片山先生の筆が滑ったのかと思うと、大変愉快な気持ちになってきます。

正気か?と思われるかもしれませんが、眼鏡堂書店は正気です。たぶん。

 

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