眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【眼鏡堂書店の本棚】雨に打たれて/アンネマリー・シュヴァツェンバッハ

眼鏡堂書店の蔵書より、独断と偏見に塗れた”もっと読まれてもいい本”を紹介しつつ、全力でニッチな方向へとダッシュする【眼鏡堂書店の本棚】。

今回ご紹介するのは、アンネマリー・シュヴァツェンバッハの作品集『雨に打たれて』です。

『文学ラジオ 空飛び猫たち』で紹介された一冊。印象的な表紙が記憶に残っていて、購入を迷っていたら店頭からなくなり(地方住まいの悲しさよ)、書店での書肆侃侃房フェアで運良く買うことができました。

 

雨に打たれて/アンネマリー・シュヴァツェンバッハ

 

あらすじは、

1930年代、ナチスに迎合する富豪の両親に反発し、同性の恋人と共に中近東を旅したスイス人作家がいた。
同じように世界に居場所を失い、中近東に流れ着いた人々がいた。
旅先で出会った人々を繊細な筆致で描いた、さすらう魂の吹き溜まりのような短編集。

Amazonより引用)

 

書かれた時代は、1930年代。あらすじにある通り、ナチスが台頭してきた時代。

ナチスに迎合する両親への反発。自身のセクシャリティ、同性の恋人、同性愛者の男性との結婚、などなど。作者であるアンネマリー・シュヴァツェンバッハ自身の昨今的な興味を引く数々が羅列されるわけですが、正直、本作においてそれらが垣間見られるものは、少なくとも眼鏡堂書店には皆無。

まあ、ナチスからの迫害から逃れてきた人々、というのはあるにせよ、のちのホロコーストと比較するべきもないわけで。

また、14編収録されている作品はどれも短く、小説というよりもルポルタージュという感じ。もしくは彼女自身が見た風景をポートレート的に切り取ったかのような。

母国を飛び出し、魂の吹き溜まりのようなオリエントの地へたどり着いた異邦人。

そんな彼女の観察眼から紡がれる物語は、非常に簡潔な文体で書かれているだけでなく、ひとつひとつが短いこともあり、大変に読みやすい作品集となっています。

作者からの圧のようなものはなく、ただただ風のような作品というか……。

読みながら、彼女がこの作品の中に何を込めようとしていたのか?あるいは、なぜ彼女がこの作品を編んだのか?を考えながら読む必要があります。まあ、そういうことを考えなくとも、ひとつのルポルタージュであり、紀行文として読むのもよいかと思いますが。

ただ、紀行文といっても、旅行というよりは自由を求めての旅や追放としての旅という印象。パレスチナへ行こうとするユダヤ人の子供が出てきたり。

ファシズムやナチズムの台頭するヨーロッパから逃れ、流れ着いたオリエントの地。

流れ着いたこの場所が安寧の地かというとむろんそんなわけもなく。

流れ着いたこの場所で待ち受けているのは、宗教対立。『伝道』という短編で描かれるのは、ムスリムによるキリスト教徒への迫害と虐殺。それらや戦災による爪痕、あとに残された傷跡によって、やるせない憎しみだけが残される『耐えに耐え…』

自由を渇望しながら行き着いたその場所は安寧の楽園ではなく、そこでもまたやるせない憎しみと悲しみがあふれている。

そういった意味で、印象に残ってメモしたのがこの箇所。

 

私たちは帰郷してからの展望がなかった。私たちは殉教者の縮こまった石像にからみつくツルバラになれたらいいなと思っていた。どこかで…。

 

ただ、個人的にはもっと圧が欲しかったところ。

この時代、同性愛者で母国を飛び出し流浪の果てに中東へたどり着いた人物がいます。

それが、ジャン・ジュネ

ja.wikipedia.org

アンネマリー・シュヴァツェンバッハが未完成の作家であるなら、ジャン・ジュネは最初から「完成された」作家。眼鏡堂書店はジャン・ジュネ作品を大変に愛しているから余計にそう感じるのかもしれませんが、アンネマリー・シュヴァツェンバッハに物足りなさを感じてしまうのです。「とてもとてもよくできている。でも、だからなに?」というような。よい作品集であるのは間違いないと断言しつつも、それに愛おしさを感じるかというとまたそれは別の問題というか……。

あと、こういう物言いはよくないと知りつつ、あえてこういう言い方をする方が伝わるかもしれないので。たしかにアンネマリー・シュヴァツェンバッハはマイノリティで異邦人なのかもしれないけれど、所詮は生まれ故郷に戻ってこれるレベルの異邦人でしかない、というか。そのあたりが、どこにも自身の居場所がないジャン・ジュネセリーヌと比較した際の、絶対的な差なのかな?と思ったり。

 

ポートレート的な意味で、その場の瞬間瞬間を切り取った作品としては、大変に手触りもよく、同じように大変に読みやすい作品でした。

さらさらと読めるのは大変良いのですが、読めすぎて、少なくとも眼鏡堂書店の記憶にはあまり深く刻まれませんでした。改めて、『空飛び猫たち』の当該回を再聴して「ああ、この話とこの話はつながっているのね」などという間抜けな発見をする始末。

すらすら読めるときほどスピードを落としてじっくり文章を追うのが大事だ、みたいなことを前に書いたような気もしますが、もはやそれすらも忘却の彼方なので、改めて自分に言い聞かせたいと思います。

 

じっくり読む、大事。

じっくり読む、大事。

 

大切なことなので2回言いました。

 

ただやはり若くして亡くなった方なので、まだまだ発展途上というか、現状でこれならば成熟したときにどんな作品を我々の前に提示してくれたのだろうか?ということを考えてしまい、今はちょっともう一度じっくり読んでみようといいう気持ちからは遠いです。

ただ、作品自体は素晴らしく、こういった作家の作品を翻訳出版した出版社の慧眼は大変すばらしいと思いました。だからこそ買ったのですが。

正直、こういう小規模出版社の本というのはいままであまり意識してこなかったのですが、そのラインナップも海外文学への興味が高まってきた今、とても高い関心を抱いているところ。なので、ちょっと読んで寝かしてあるアン・カーソン『赤の自伝』も再挑戦したいと思ったところ。

 

まあ、何はともあれ今こうして感じたことがいったんリセットされるだけの期間を置いたのちに、もう一度読んでみたいと思います。

 

 

最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、ツイッターのフォローや、#眼鏡堂書店をつけて記事を拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。