眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【開催しました】眼鏡堂書店の読書会『飼育』大江健三郎

5月19日(日)さくらんぼ東根駅前のコーヒー屋おおもりにて、大江健三郎の『飼育』を課題図書とした読書会を開催しました。

今回の参加者は、主催の眼鏡堂書店を含め3名。しかも全員眼鏡。

メガネ・グランドスラムの達成です。

飼育/大江健三郎

さて。

 

今回の課題図書は、大江健三郎芥川賞を受賞した『飼育』。

前回の芥川賞にて彼の『死者の奢り』と開高健の『裸の王様』とがバチバチに競ったのは有名な話。(※結果として開港が芥川賞を受賞)

その半年後に再度ノミネートされた際は、ほぼストレートで芥川賞を受賞。とはいえ、選考委員の一人である宇野浩二からは「もう芥川賞をあげなくてもいいんじゃない?」という反対票を投じられるなど、当時23歳だった大江健三郎の勢いのようなものが感じられます。

大江と芥川賞は切っても切れない関係にある(と勝手に思っている)ので、今回課題図書とした次第。

さて、その課題図書のあらすじは、

戦時中にアメリカの飛行機が撃墜され、森の奥の谷間の村に黒人兵が落下傘で降りてくる。捕らえた黒人兵をどう処置するのか、県の指令がくるまでの間、語り手の少年・僕の家の地下倉で黒人兵を「飼育」することになる。最初は「獲物」であった黒人兵と僕の関係は日毎に人間的な触れ合いになっていく。(Wikipediaより一部抜粋)戦時中にアメリカの飛行機が撃墜され、森の奥の谷間の村に黒人兵が落下傘で降りてくる。捕らえた黒人兵をどう処置するのか、県の指令がくるまでの間、語り手の少年・僕の家の地下倉で黒人兵を「飼育」することになる。最初は「獲物」であった黒人兵と僕の関係は日毎に人間的な触れ合いになっていく。(Wikipediaより一部抜粋)

 

前回参加した読書会での課題図書『東京都同情塔』とは真逆の、今日的な感覚ではだいぶコンプライアンス的なアウト感漂う作品。する側・される側双方の間から立ち込める強烈な、しかし静かな差別意識が良くも悪くも印象的。

主要登場人物の名前が、兎唇だしねえ……。

 

ただこの件に関しては、眼鏡堂書店から注釈を。

今回使用したテキストは2冊。『死者の奢り』と平禄された新潮文庫版と、大江が自選し加筆修正を加えた岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』。

なぜ2冊かというと、これが少々いろいろありまして。

まずは岩波。これがおそらくもっとも原初に近しいかと思われます。

ただ、生前の大江が加筆修正を加えているため、発表時のニュアンスが異なるところがある、ハズ。確かめたわけではないのでわかりませんが、若書きの青臭さを後年に書き直したとはいえ、それは改竄に他ならないわけで。

かといって新潮文庫新潮文庫で問題が。

こっちは現在のコンプライアンス的に問題がある単語について、当該単語の修正やルビの削除が行われています。兎唇から《みつくち》のルビを削除、黒んぼを「黒人」に変更。これがいびつな意味で(とくに後者)作品の印象を変えてしまう、というかなんというか……。仮に、本作で「飼育」されるのが白人であったのなら「白んぼ」と表記したか?また、巻末に「差別を助長するものではない」という注釈がないことについても、本作それ自体が意図的に用いられた差別表現があってこそ成り立つ部分があるため、そういった注釈それ自体が矛盾を生じさせてしまうところがあり……。

まあ、なかなかに(扱いが)難しい作品。

そんな作品を、わずか23歳で書き上げた大江健三郎、ハンパねえなあ。

 

んでは、読書会の内容をば。

主催の眼鏡堂書店はさておき、他の参加者は結構大江作品を読んでいる方と、今回初めて読んだ方とに分かれていて、いろいろな方向から本作を見ることができました。

まあなんといっても特筆すべきは、その圧倒的な構築性。

シンメトリー的な作品の構成と対比。それは作中での伏線を見事に回収するところに現れます。シンメトリーの中心線は黒人が僕を襲う場面なのですが、そこを中心とした対比、例えば冒頭の《採集》の場面と、ラスト近くの書記の死を受けて草原を降りていく場面。冒頭の子供じみた風景から、「大人」になることでそんな子供じみた光景の一切と決別しなければならなくなった虚無感めいたもの。

そのあたりについて、神話的でありながらグロテスクでもある水浴の場面の描写を含めて、サルトルからの強い影響を指摘する声が。

また三島由紀夫との対比では、三島作品の登場人物が一般名詞を用いられることが多いのに対して、大江作品では名前に動物の名前が入ったり、そもそもが変な名前のキャラクターが多いという指摘がありました。

確かあれは江藤淳だったか蓮見重彦だったかわすれましたが、「大江文学はだめだ!変な名前ばっかり付けやがって」という批判があったのをぼんやりと思い出した次第。

また、大江文学に登場する「障がい者」は何を意味するのか?については、参加者の方より「意味というよりも、それが戦前戦後の(大江にとって)ありふれた光景だったからでは?」という指摘があり、なるほどなあ、と膝を打ちました。

 

また、今現在と当時の純文学との比較で、「語らせる」のか「察しさせるのか」問題についても少々。

1950年代当時は、如何に語るか?語ることで明らかにする。

2000年代は、如何に語らないか?語らないことで明らかにする。

そのような違いがあり、今の作品を読む視点からすると語りすぎなような気もします。とはいえ、その語りすぎていると感ずる部分に関して、伏線を回収するという意味での調和や必然性が取れているので、あからさますぎるかも?と思いながらもカットしていい部分ではないというところに着地しました。実際、岩波文庫の方でも、それらのシーンはそのまま生かされていたわけで。

具体的に言うと、

「あれは僕の臭いじゃない」と僕は力のない嗄れた声でいった。「黒人の臭いだ」

最後の「黒人の臭いだ」がなくとも以降の文章「僕はもう子供ではない(以下略)」につながるわけですが、やはり少々あからさまな気が。

ほかにも、P157~P158の書記とのセリフの前後とか。これもあからさまだけど伏線回収の答え合わせだと思えば、ねえ……。

 

あとはなんといっても、兎唇。

彼のファンキーウエポンぶりが大変に素晴らしく、水浴の場面で年下の女の子にチ●コをいじらせて恍惚としてみたり(2回ある)、2回目の水浴の場面での「ヤギ連れてこいよ♪(満面の笑み)」など、ぶっ飛び具合が素晴らしいです。

大江文学にはときどきこういうキャラクターが登場してくるので油断なりません。

 

何はともあれ、50年以上も前の作品でありながら、今なお鮮烈な印象を与える作品で大変読みごたえがありました。短い作品でありながら一切の無駄がなくとても濃密。それでありながらドラマ性もあり……。

初めて読んだという方からは、「生々しい匂いを感じるくらい高濃度の描写で、純文学に初めて触れましたがとても楽しむことができました」と感想を頂きました。ありがとうございます。

また別の参加者の方からは、中期の作品、特に『M/Tと森のフシギの物語』『万延元年のフットボール』における個性と普遍へと還る特殊性がのちのノーベル賞受賞の決め手の一つと教えていただきました。『万延元年のフットボール』は読んでいたのですが、『M/Tと森のフシギの物語』はまだ未読なので、折を見て読もうと思いました。ありがとうございます。

 

今回の課題図書は、ド直球の純文学ということもあり内心ドキドキしていたのですが、様々お話しいただき、楽しんでいただけたら幸いです。

個人的な反省として、主催者がちょっとしゃべりすぎた感が。

読書会の主役はあくまでも参加者の方ということを再確認せねば、と思った次第です。

 

ご参加いただいた皆さま、そして今回会場をお貸しいただきましたコーヒー屋おおもりのマスター&ママさん、大変ありがとうございました。

 

さて、来月6月の読書会、課題図書は澁澤龍彦の『高丘親王航海記』です。

会場は山形市内を予定しておりますが、決まり次第告知しますのでしばしお待ちください。

 

最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、ツイッターのフォローや、#眼鏡堂書店をつけて記事を拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。

 

【追記】

『飼育』は大島渚監督により映画化されていた模様。