眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【眼鏡堂書店の本棚】白い薔薇の淵まで/中山可穂

眼鏡堂書店の蔵書より、独断と偏見に塗れた”もっと読まれてもいい本”を紹介しつつ、全力でニッチな方向へとダッシュする【眼鏡堂書店の本棚】。

今回ご紹介するのは、個人的な事情で10月の読書会をお休みするに伴い、その時の課題図書としていた、中山可穂の『白い薔薇の淵まで』です。

白い薔薇の淵まで/中山可穂

眼鏡堂書店は恋愛小説というものをほとんど読まないのですが、そんなポンコツが手元に置いて時々紐解く数少ない恋愛小説がコチラ。

前に本棚で紹介した色川武大の『離婚』といい、最近入手したアニー・エルノーの『シンプルな情熱』、そして本作。眼鏡堂書店くらいの剛の者になってくると、独身未婚にもかかわらず、読むのは離婚と不倫と家庭崩壊の話ばっかりだぜ!

 

感想の前に、『白い薔薇の淵まで』のあらすじを少々。

あらすじは、

雨の降る深夜の書店で、平凡なOLの私は新人女性作家・山野辺塁と出会い、恋に落ちた。
初めて知る性の愉悦に溺れてゆく二人の女は激しく求めあい、傷つけあいながらも、
どうしても離れることができない修羅場を繰り返していくーー。
甘美で破滅的な恋と、めくるめく性愛の深淵を、研ぎ澄まされた美しい文体で綴った究極の恋愛小説。
女性同士の生々しいリアルな恋愛をとびきりの切なさで描くことに定評のある著者の代表作である本作品は、発表から20年という時を経ても色褪せることなく、瑞々しいエロスを放ち続けている。
一文も読み飛ばせない完璧な恋愛小説の金字塔!
復刊にあたって書き下ろされた河出文庫版あとがきも特別収録。

(※Amazonより引用)

 

本作は、あらすじの中にもある女性同士の恋愛を描いた作品。いまでこそ、LGBTやらジェンダーなどが盛り込まれる作品も珍しくない中、20年経った今でもなお、非常に鮮烈な印象を受けます。

昨今のLGBTジェンダー的な作品に手が伸びないのは、個人的にそういった思想的なものよりも、作品が優れていること、の方に眼鏡堂が絶対的な重きを置いているからでしょう。実際、山本周五郎賞受賞が納得できるくらいに作品としての質は非常に高いです。併せて、あらすじで書かれているようなエロティシズムも、卑俗さや下品さとは無縁で、情熱的でありながらも透き通るような美しい文章でつづられます。

ただ、それでも万人にお勧めできるかというと、ねえ……。

 

作品は、主人公の”私(とく子、クーチ)”と、私と恋人関係になる作家・山野辺塁、そして私と学生時代からの恋人でのちに結婚することになる喜八郎との三角関係?(※塁と喜八郎との間にはたしか接触はなかったハズ)でストーリーが展開していきます。

結論から言うと、その三人の誰一人として幸せになりません。

この塁がクセモノで、誰かを依存させる何らかの要因を持っていて、なおかつそれを自覚しているような女性。横暴でわがままでありながら、ここぞというところで優しさを見せてくるところなどDV男にしか見えてこない。作家としてはスランプの最中でありながら、デビュー作がうるさ型の評論家の激賞を得るなど、才能も(多分)十分。

一方のクーチはどこにでもいるようなごくごく平凡な女性。多分、塁と出会わなければ喜八郎と平均的でそれなりに幸せな家庭を作るだけの平凡な人生で終わったかもしれません。

それが塁との出会いで一変。喜八郎と結ばれるも、彼女の心の先には塁が。

正直、このくらいまで読みすすめるともう閉塞感が半端なく、もはや恋愛小説という甘さは皆無で、ただただ苦しいという感じ。

とにかくクーチの姿勢が、眼鏡堂書店が男なせいか、終盤になればなるほどイライラしてきてもはや怒りさえ覚えます。精神的に追い詰められた喜八郎は生徒への暴力行為が問題となり、教職を辞する(?)結果に。そして離婚となるわけですが、それでもクーチに対して謝罪とともに慰謝料を支払う場面に、なんとなく男の意地のようなものを感じました。

総じて誰一人として幸せにならない恋愛小説ではあるのですが、そのむき出しの部分や作者の筆致の繊細さや大胆さに、改めて心惹かれた次第でした。

とはいえ、ジャン・ジュネの再来として評された若手作家の最終作が家族と野球の小説、っていうのは当人的には大満足なんだろうけど、これを読まされる読者はただただ困惑するだけのような気がしました。ジャン・ジュネと野球と家族はだいぶ遠いぞ。

 

10年位前の女性同士の恋愛小説ということで、今日のジェンダーLGBT論のようなものが一切内包されない、純粋な意味での小説であることは、再読してみて新鮮なものとして感じました。要するに、「愛した相手が女性だった」という以上でも以下でもなく。

眼鏡堂書店の記憶が確かならば、ジェンダーLGBTが社会活動として高まっていく中でこの小説も(作者の意図とは違った意味で)盛んに取り上げられ、そこで生まれた祖語によって作者自身が、社会活動への決別を宣言するに至ったと思います。

もともと寡作ではあったとはいえ、この決別宣言以降さらにそこに拍車がかかった気もしますが、その一方でより秀でた作品を編まれるようになったような印象を覚えます。もっとも、以降の作品をあれこれ言えるほど読んでいるのかと問われると、ごめんなさい、としか言えませんが。

 

本来なら、10月は本作を課題図書とした読書会の予定でしたが、主催者多忙につき流れてしまったので、ここで眼鏡堂書店の感想などをつらつらと書いてみたところです。

 

最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、ツイッターのフォローや、#眼鏡堂書店をつけて記事を拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。