眼鏡堂書店

山形県東根市を中心に、一冊の本をみんなで読む課題図書形式の読書会を開催しています。 また、眼鏡堂店主による”もっと読まれてもよい本”をブログにて紹介しています。

【眼鏡堂書店の本棚】三浦老人昔話/岡本綺堂

眼鏡堂書店の蔵書より、独断と偏見に塗れた”もっと読まれてもいい本”を紹介しつつ、全力でニッチな方向へとダッシュする【眼鏡堂書店の本棚】。

今回紹介するのは、岡本綺堂の『三浦老人昔話』です。

三浦老人昔話/岡本綺堂


本作は全7巻からなる『岡本綺堂読物集』の第1巻。各巻とも基本的に読本のスタイルをとりつつ趣向を凝らした作品となっていますので、残りはいずれまた。

 

さて。

岡本綺堂といえば代表作は『半七捕物帖』。そちらでは、主人公の私が引退した腕利きの岡っ引きである半七親分に当時の事件を聞き書きする、という形でストーリーの進む大衆的な江戸情緒の色濃い推理小説なわけですが、本作『三浦老人昔話』もそのような形式がとられています。また、最初の話で半七親分が、私と本作の語り手である三浦老人とを引き合わせるなど、一部、スピンオフ的なところも見られます。

とはいえ、そこで語られるのは『半七捕物帖』とは大きく異なる”奇妙な話”。

それも、作品が古いということもあってか、現代の怪談的な奇妙な話というより読本の世界。感覚的には怪談要素を抜いた百物語のような雰囲気も。

いずれにせよ、三浦老人の語る話の舞台となるのは江戸後期から幕末、明治の本当に初頭。歴史の動乱期に生じた不条理劇や、互いに良かれと思ってやったことが結果として最悪の悲劇を巻き起こしてしまった話など、「面白い」や「よかった」「怖かった」のような単純な言葉では総括できない、何とも言えない余韻というかやるせなさのようなものを感じさせます。考えようによっては、それは人情噺のようなものにカテゴライズされるのかもしれませんが、それにしては結末がブラックすぎるというか……。

とはいえ、話の構成から考え抜いたブラックユーモアというより、結果的に生じてしまった一抹の後味の悪さ、というほうが的を射ているような気もします。

 

本作の魅力は多岐に上るのですが、眼鏡堂書店としてあえてひとつ挙げるならば、「語りの妙」に尽きると思います。

実際に、短編すべてのストーリーテラーは三浦老人。ちなみに、三浦老人死後の話もあるのですが、それは老人の語りを私が思い出すというかたちなので実質的に同じです。

まずは、

「ぢやあ、まあお話をしませう……」

という帯に書かれている文言が象徴するこのセリフ。

実録ホラーや本当にあった怖い話のようなベクトルとは全く異なるものの、独特のリアリティラインとノスタルジックな文体とが相まって、物語の世界にぐいぐいと引き込まれていきます。

引用した文章が明確に示すように、本作は旧文旧仮名表記。もっとも、中央公論社のはからいでできるだけ現代的な文章に寄せてありますが。

眼鏡堂書店としては、旧仮名旧文で書かれた文章はそれを遵守すべきという立場。書かれた時のスタイルそのままで読むのが当然のことであり、読みにくいからといって平易な現代仮名遣いに直すのは改竄というべき。かつての文体で感ずることのできるアストモフィアがあるのは事実。それを味わうことも、このテの作品を読む魅力といえると思うのです。この辺の読みやすさを優先する改竄は、落語『目黒の秋刀魚』のオチが物語ってくれていると思うのです。

 

それはそれとして。

 

前時代的な世界観の中で展開する、人間の業や因縁、宿縁が絡み合う哀話など、それは奇譚と呼ぶ他ないような、(いい意味で)なんともカテゴライズしにくいノスタルジックな江戸趣味にあふれた短編が12編。起承転結がはっきりしている、というよりもそれぞれの話が、ラストできちんと語りとしてストンと落ちる感じ。なので、個人的にはどんどんと読み進めていく短編集というよりも、1編ごとにゆっくり&じっくり味わうものだと感じました。なので1日1編で読んでいくのが最高の贅沢といえる気がします。

前述したように、基本的に旧仮名旧文で書かれているのでいささかの読みにくさもあるのですが、中央公論が基本的な部分を変えることなく、ただし、最低限の読みやすさを担保する意味での現代仮名や現代文への改編(?)を行ってくれているので、少なくとも古文の教科書レベルの読みやすさがあります。

これもまた前述したことなのですが、読みやすさを優先するあまり全面的に現代語化してしまうと、少なくとも本作が持っている魅力の大半が失われてしまうでしょう。旧漢字であるからこその魅力なり作品の雰囲気というものがあるわけで。

そうは言いながらも、問題も少々。それは、慣用句的に用いられる表現が、おそらくはこの当時なら常識的なレベルの引用であっても、今現在ではそれが何を意味するのか、一度立ち止まって考えなければならないということ。そもそも、その引用の原典は何なのか、という所までさかのぼらないと、岡本綺堂が何を言いたいのかがわからない、という問題点。現代小説や近代文学なら前後の文脈からなんとなく予想できるのでスルーしがちなことも、まったくわからない引用であればふんわりとした予測すら困難なわけで。

例えば、

眼あきの朝顔*1

粟津の木曽殿*2

なんというか、四書五経を諳んじるではないけれども、多岐にわたる通人ぶりが伺えます。というよりも、当時はこのくらいのことがツーカーで通じたのだと思うと、かなり驚きます。趣味的な分野は確かに現代は多様化しているけれども、そもそもの分母の部分では当時とは比較にならないくらい少なくなった、といえるかもしれません。現代のそれは単に細分化されただけ、と考えるのならば。

 

個人的に好ましく読んだのは、『人参』『落城の譜』『春色梅ごよみ』『刺青の話』『矢がすり』。そのほかの作品に関しても、読み手によって印象が異なると思うので、例えば読書会などで、好きな作品とわからなかった作品とを挙げて、どこが好きか&どこがわからなかったか、を話すのも楽しそう。

いずれにせよ、岡本綺堂というともはや一時代以上前の作家であり、ほとんど手に取られることのない作家です。でも、その作品が古びているからこその魅力というものもあるわけで、今回はそこにフォーカスしてみたところです。新しいことばかりが絶対的な価値ではないわけで。そういう意味でも、眼鏡堂書店は古い、それも今では読まれることのなくなった作品を取り上げていこうかと思います。

 

というわけで、最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、ツイッターのフォローや、#眼鏡堂書店をつけて記事を拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。

*1:朝顔浄瑠璃『生写朝顔話』の登場人物。もとは武家の娘だが、悲恋のために家出して遂には失明し、門付けの瞽女となる。三浦老人は自分の歩き方を盲目で杖をついてゆっくりと歩く瞽女になぞらえ、「目あきの朝顔」と表現している。『生写朝顔話』は江戸末期の人気浄瑠璃であった。

*2:平家物語で有名な木曽義仲の最期の地が粟津。義仲は粟津の深田に馬を乗り入れてはまり込み、進退不自由になったところを鎌倉方に弓で射殺された。本文の「わたし」が雪解けの悪路に難渋したことを聞き、三浦老人が故事を引いて慰めた表現。苦労を誇張して笑いに変え慰める意図がある。