10/19(日)に東根市にあるコーヒー屋おおもりにて、アンソニー・ドーア『すべての見えない光』を課題図書とした読書会を開催しました。
ネットフリックスにてドラマ化されるなど海外文学好きからの評価が高い1作であり、700ページというボリュームながらなかなかに読ませる作品。
なお、なかなかに読ませる作品であった結果、久しぶりに読書会の写真を撮り忘れるというミラクルが発生しました。
ご査収ください。参加者の方がご持参くださいました「アハトアハト」です。

眼鏡堂書店の読書会は参加費が1品以上の注文なのですが、せっかくなのでという理由でコーヒー屋おおもりで一番高いソフトドリンクを注文。それが、ブレンドコーヒーおおもり。通常のブレンドコーヒー2杯分がくるのですが、その圧倒的な映え感!実際に来た時には、ローカルな話題で恐縮ですが、さくらんぼ東根駅東口方面にあるそば屋「東亭」の冷たい肉そば大盛りを彷彿とさせるビジュアルです。
コーヒー屋おおもりにお越しの際は、ぜひとも興味本位でのご注文をオススメします。
(これまた写真がありません)
そして、おおもりのマスターより柿のサービスをいただきました。ありがとうございます!
(これもまた写真がありません)
さて。
『すべての見えない光』は、第二次世界大戦中のヨーロッパを舞台に、若いドイツ兵ヴェルナーとフランス人の盲目の少女マリー・ロールが一瞬の邂逅を果たすまでの話。
眼鏡堂書店は主催者という立場上、課題図書は一読したうえで決定するのですが、本作に関しては各所での絶賛による紹介だったので読まずに内容だけを把握したうえで決定したのですが……。
これは読書会で話したことなのですが、初読の印象は最悪。アンソニー・ドーア(と翻訳の藤井光)の現在形の短文を重ねるスタイルが非常に読みにくく、あまつさえ第二次世界大戦がバックグラウンドにあるにもかかわらず戦争に向き合っている印象も薄く、また訳語の一部に違和感を感ずるなど、読書会を主宰して初めて「これはやらかしたかもしれん」と思いました。
とはいえ、再読してその印象は逆転。
戦争がなければ出会わなかった二人の一瞬の邂逅は心にグッときました。
しかしながら、作中の細かなアラは参加者全員が感ずるところ。大戦末期のアハトアハトの運用方法、ドビュッシーの『月光』の譜面的解釈、ウクライナ方面でのパルチザン探索について、などなど。
個人的にはヴェルナーの場面全般での戦争やナチ政権への向き合い方が、少々アンフェアな印象。もっともこれは「この作品は戦記文学じゃないからね」という参加者の方からの言葉でまずは納得。
ヴェルナーとマリー・ロール、お互いに自身の置かれた境遇から抜け出ようとする、という構図は同じながらその先にあるものは真逆。
このまま居続ければただの炭鉱夫で終わってしまうからこそ、エリート養成学校への入学という形で脱出したヴェルナー。しかしその先に待っていたのは……。
一方のマリーロールは幼くして盲目になってしまうも、父親や周りの人たちの支えから一人の人間として自立した生活へと歩んでいく…。歩んでいくのですが、これもちょっとなあ、という意見が。ヴェルナーの周辺に彼への協力者がほとんどないのとは対極に、マリー・ロールは非常に手厚く支えられているのがちょっとしたモヤモヤ感。
まあ、ベタな展開といえばそれまでなのでしょうが。
『すべての見えない光』というタイトルが指し示すものとして、二人をつなぐラジオの電波という見えないもの。視力を失ったマリー・ロールを導く文字通りの「見えない光」。図らずもそこに従わざるを得なかった指導者という意味でのヴェルナーの「見えない光」。暗示的なタイトルの解釈についても、様々な意見が出ました。
戦争をバックグラウンドにしながらも、それに翻弄される市政の末端にいる人々の取るに足らない断片、と解釈するなら大変に収まりの良い作品だと思う一方。だったら、あの宝石(炎の海)はいったい何だったんだ?という個人的な疑問も。あの下りがなかったらなかったで完全に成立する話だし、いまさらながら作者がエンターテイメントに持っていきたかったのか、ヒューマンドラマに持っていきたかったのか、結局中途半端に行ったり来たりしていたような感じを今更ながら感じました。たぶんこれは、初読の印象の悪さからくる意地悪な感想なので、これから本作を読もうとする方は完全に無視してください。
とはいえ、700ページの厚さをものともしない没入感と読後感はかなりのもの。
季節柄、読書の秋にふさわしい一冊ではなかろうかと思います。
何はともあれ、おすすめの1冊です。
今回の『すべての見えない光』はネットフリックスでドラマ化されており、そちらでも楽しむことができます。この辺りからも本作の人気の高さがうかがえます。
実際にご覧になった方からは「原作とだいぶ違う」。
ことに登場人物以外の役柄が非常に紋切り型で原作を読んでから見ると戸惑うくらいだったとのこと。映画するにあたって仕方のない部分はあるにせよ、原作>映像化になってしまうよね、という話に。
余談として、「原作が映像化されるとどうしても原作よりも完成度が低くなる。逆に映像化作品が原作を超えるようなものはあるだろうか?」
この疑問には明確な答えがあります。
それは『ジョーズ』です。
サメ映画の金字塔であり、パニック映画の傑作として名高い『ジョーズ』。
実は原作があります。
この原作、実際に読んでみると「よくこれを映画にしようと思ったな」というくらい剣呑な作品(ダメな作品ではない)。ちなみに、映画と本筋において同じではあるもののだいぶ……な感じ。原作者のピーター・ベンチリーも暢気なもので映画にはテレビレポーターの役でチョイ役出演しています。
読書会の中で、「戦後80年となりリアルタイムで戦争を経験した世代がほぼいなくなった中、(フィクションであれ)なぜ戦争を語り継いでいかなければならないのか?私たち自身は全く経験したことがない出来事なのに」という問いがありました。
その時即答はできなかったわけですが、眼鏡堂書店の個人的な答えとしては「人間は鞭で忘却の生き物なので、過去をすぐに忘れてしまう。その現在に至る過程の中で無数の過去が積み重ねられて今があるということも忘れてしまう。それを忘れてはならないこと、同時に人間は無知なので過去の過ちや災禍もすぐに忘れてしまう。それを忘れないために語り継ぐ必要がある。幸いにして人間は物語を欲する生き物なので、物語っていけば少なくともそれを忘れる人間はゼロではないだろうから」という極めて曖昧模糊とした答えにたどり着きました。この答えも正しいのか正しくないのかわかりません。
亡父の本棚から発見した『ルーツ』でも紐解きながら、ゆっくりと考えようと思います。
さて。
来月11月の読書会の課題図書は、江藤淳の『妻と私』です。
開催日、場所等は決まり次第お知らせいたします。今しばらくお待ちください。
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