9月29日(日)に、山形市にあるQ1にて開催された、紅花読書会さま主催のサン=テグジュペリ『星の王子さま』を課題図書とした読書会に参加してきました。
世界で1億冊も売れたという名著の中の名著。
なんか、箱根には『星の王子さまミュージアム』などというものもあるらしいですよ。
それはさておき。
こんなにも有名な作品ですが、眼鏡堂書店は初めて読みました。
初めて読んだのですが、まったくと言っていいほど心に響かず&刺さらず、初読の際は読了に四日費やしました。なぜかは知りませんが、とにかく途方もなく読みづらく、まったく頭に入ってこなかった、というある意味で強烈な体験をしたところです。
さらに不運は続きます。「自分で読んでもわからないから、もっと賢い人に教えてもらおう」とポッドキャストを探して再生させたところ、眼鏡堂書店の天敵である石田衣良さんが滔々と本作について語るではないですか!
怒りのあまり、危うく本を焼き払いそうになりました。危なかったです。
何度か読んだのですが、「いい本なのだろう。自分にはわからないが」というところから脱却できず、助けを求めるようにQ1へと向かったのでした。
当然といえば当然なのですが、ほかの方々がちゃんと読めていて非常に助かりました。
ありがとうございました。
詳しいところは、紅花読書会さんにおまかせして……。
では、なぜ眼鏡堂書店は『星の王子さま』が刺さらなかったのか?について、少々。
1 この”世界”は物語のように単純ではない
『星の王子さま』が世界中で愛される理由の一つとして、世の中の心理を簡潔に言い表している、というものがあろうかと思います。
その点に関しては一切否定しません。むしろ、それこそがこの作品が世界中で読まれていることの証左であるとも思います。でも、どんなに”単純化”してみせたところで、現実の世界は”単純ではない”からね、という諦観に、眼鏡堂書店は傾くのです。
世界にせよ社会にせよ、自分を含めた多くの人間がそこにかかわるからこそ、それはいろいろな意味で複雑であり、だからこそ不条理なものとなっている、と眼鏡堂書店は思います。サルトルの『嘔吐』で主人公が感ずる吐き気の根幹が、この実存にあるのは有名な話です。さらに言えば、自分が今この瞬間にいなくなったとしても、世界も社会も(多少の変容を生じさせながらも)続いていく。そういう意味での現実との対し方がこの作品には希薄で、眼鏡堂書店には刺さってこなかったのだと思います。
2 子供と”かつて子供だった大人たちへ”
この「かつて子供だった大人たち」という言葉も、眼鏡堂書店が本作を鼻白ませた要因の一つ。「かつて子供だった大人たち」が、子供であったころを過去を回想する大人ではなく、「いつまでも子供の心を持った大人」というものへと拡大解釈されているきらいを感じます。そんな大人を眼鏡堂書店は最高レベルで馬鹿にするし、軽蔑します。なぜならそこに、成長や成熟がないからです。いつまでも幼稚でいたかったら幼稚でいればいい。だがそれは決して褒められるものではない、ということも考えろ、と。
少なくとも、自分自身はかつて見ていたその年齢の大人の年齢に達した今、年相応の成熟がないことに愕然とし、少なくともその成熟に近づかなければ、という意識があります。それができているかどうかは、また別問題ですが。
だからこそ、「いつまでも子供の心を持った大人」への嫌悪がバイアスとなって、この本から心を遠ざけるのでしょう。
3 サン=テグジュペリとルイ=フェルディナン・セリーヌ
一番大きかったのは、同時代を生きたセリーヌの存在。
サン=テグジュペリが『星の王子さま』を出版する10年前、セリーヌは『夜の果てへの旅』を発表し、一躍文壇の寵児となります。
「大切なものは目には見えない」とサン=テグジュペリが書いた10年前、彼は『夜の果てへの旅』の序文にこう書いています。
「旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。
それは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街(まち)も、自然も一切が想像のものだ。これは小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。
それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ。」
たしかに、『星の王子さま』は素晴らしい本です。それこそ、クリスマスに親が子に対して綺麗にラッピングされた本書をプレゼントするような。
一方の『夜の果てへの旅』は真逆にあります。呪詛と罵声を吐き散らし、世間の最底辺をうごめく、いわばドブ川の澱のような作品です。
でも、眼鏡堂書店はそのドブ川の澱に美しさを見出すのです。もっとも醜く汚れているからこその美しさがそこにはあるような気がします。いわばマグダラのマリアのような。
そういう意味では、眼鏡堂書店は最初から『星の王子さま』に求められた読者ではないのでしょう。
サン=テグジュペリが消息を絶った44年、セリーヌは過去に書いた反ユダヤ主義の文章やナチス協力者という点で国家反逆罪の対象となり、デンマークへ亡命しています。その後恩赦は出されたものの、本国フランスでは禁書の扱いを受け、全集を読むことができるのは日本だけ、という現状にあると聞きます。
美しい寓話よりも、眼鏡堂書店は腐臭を放つ手垢にまみれて汚れきった実存をこそ愛するもののようです。
かといって、何度も繰り返すようですが本作を否定するものではなく、「大切なものは目には見えない」というのは「考えるな、感じろ」というジークンドーの精神に基づくものであり、サン=テグジュペリはブルース・リーであろうとも思っています。
様々な星に王子さまがいくのも、きっと『死亡の塔』へのオマージュなのでしょう。知らんけど。
それらにしたところで、思うのは純粋に作品を楽しめていないこと。
ただ読む。ほかの余計な知識に邪魔されることなく純粋に読む。
読書会主催者だから、というわけではないにせよ、分析的に、文学的深掘りをしながら読んでしまう。
何も考えずに、ただただ素直に読んでみたい。
ほかの作品から引用比較することなく。
普通に販売されている普通の小説を、普通に推薦されている普通の小説を、普通に売れている普通の小説を、僕は普通の気持ちでもう読めない。
あの幸福だった読書時代は、どこに消えてしまったのだろう?
ま、これも佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』からの引用なんですけどね(不敵な笑み)
いずれにせよ、読んでみて「いまいちよくわからない」本に出くわしたとき、案外読書会に参加してみるというのも、自分の知らない視点や解釈を知ることができるという意味で、大変有意義なことではなかろうかと眼鏡堂書店は思いました。
今回、紅花読書会に参加するにあたり、おそらく生涯読まないであろう『星の王子さま』が読め、なおかつ、自分の思いもしなかったことについて知ることができ、いろいろ話ができたのは大変良い体験でした。
これからも、折を見て参加していこうと思いますので、よろしくお願いいたします。
最後に、内容の感想やリクエスト、記事を見て本を読みました、読み返しましたなどありましたらコメント欄に書き込んでいただけるとありがたいです。あと、もし気に入っていただけたなら、読者になっていただいたり、ツイッターのフォローや、#眼鏡堂書店をつけて記事を拡散してもらえると喜びます。以上、眼鏡堂書店でした。